人生、どこでどうなるかわからない。
きっとそれは、色んな出会いがあるってことなんやと思うわけで。
人との出会いはもちろんやけど、物との出合いも含めて。
特に先生との出会いはその子の人生を左右するほどの影響力があったりなかったり。
その教科が好きになったり、嫌いになったりもあるやろうし、ものの見方や考え方など、人間的に影響を受ける場合もある。
これはもう運としか言いようがないんかもしれへんけど、素敵な大人が増えれば、素敵な出会いの確率も上がるわけで。
学校とかでも定期的に外部の講師を招くとかして、たくさんの人と触れ合えるチャンスをつくって欲しいなと思う。
今日の記事は素敵な先生のお話し。
一人一人がかけがえのない存在
自分に自信がない。こういう子どもが最近多いそうな。なんだかちょっぴり悲しいですね。
これは多分、自分の存在を認めてもらえるような場面が少なかったのだろうと想像してしまうんです。まあ、形のない自信を計ることなんてできないので、なんとも言えない部分もあるんやけど。。。
周りにいる大人が一人でもいいから、たった一人でもいいから、自分のことを肯定してくれる人がいたら救われるのにな。自分の存在価値を自分自身で見出すのはなかなか難しいもんですよね。
身近にいる人が、
「あなたはあなた。それだけで素晴らしいことなんだよ」
そう教えてくれたら、どれだけの子どもが救われるんやろう。
この美術の先生が伝えたかったのは、そういうことなんやと勝手に思ったわけで。
集まるとどうなる?
一人ではできないことも誰かと力を合わせれば、できることもある。一人でしかできないことももちろんあるけど、それ以上に、一人じゃできないことの方が多いと感じるわけで。
別に相手が友人や仲間である必要はない。「三人寄れば文殊の知恵」という言葉にもあるように、一人だと見えないことがあるもんで。
自分は自分、相手は相手。お互いに一人の存在同士。自分を認めて、相手を認める。その上で協力できれば、大抵のことはできる、気がする。
最後に・・・
人はいつでも、どこでも、だれからでも、なにからでも学ぶことができるはずで。だから、必ずしも自己肯定感を得るためには相手が必要というわけじゃない。でも、自分で自分を認めることっていうのは、言うほど簡単なもんじゃない。
願わくば、一番身近な家族に一人でもいいから、自分の存在を認めてくれる人がいてほしい。一つ一つの言葉や行動の積み重ねが子どもたちの自己肯定感に繋がるはずやから。
これをしたら、あれができたら。そんなことでしか評価されない子どもたちは、自分の存在そのものに意義や価値を見出すことができるんだろうか。
子どもたちは大人が思っている以上に正直で敏感な生き物。ただ、子どもたちは言葉を持っていない。自分の気持ちを適切に表現できない。思っていること、感じていることを伝える術がない。
もう少しだけ、寄り添えたら。もう少しだけ、思いやれたら。
条件付きの愛情は情緒的な裏切りである。
今ならこの言葉の意味が少しわかる気がする。
それではこの辺で。